映画『ウトヤ島、7月22日』

ウトヤ島、7月22日』を観た。ノルウェーで実際に起きた銃乱射事件を元に、生存者の証言から作られたフィクション映画で、ドキュメンタリー映画ではない。大きなネタバレはないように話しているはずだ。私的には話の筋の――この映画に筋と言うものがあるのかわからないが――オチになるような部分は話していない。

映画の最初に、ウトヤ島で事件が起こる前に庁舎が爆破された事件の短いシークエンスがあり、それから、ウトヤ島の場面が始まる。そこからは72分(実際の事件の終結までの時間)ワンカットで撮られていて、もしかすると加工されて幾つかのカットをつなぎ合わせているのかもしれないが、完全に一つのカットにしか思えない。どうやってリハーサルをしているのだろう。こういうワンカットの映画は、数は少ないがいくつか存在する。この映画は冒頭の除いてワンカットで撮られているがPOV(主観映像)ではない。それはいいところとして挙げていいと思う。

ウトヤ島の場面が始まると、カメラの前に一人の女性が現れて、真正面から、明らかにカメラの方を見る。女性がまともにカメラを見るのは、私の記憶ではここだけで、それが映画の本当のはじまりを告げているように思える。映画で、登場人物が明らかにカメラ目線になるというのは、観客としては少し奇妙な感覚になると思う。まるで画面の向こうから、こちらを見ているような気持ちになるからだ。その奇妙な、少しばかりリアリティが崩れるような出来事を、この映画では、これから「リアルな」ワンカットが始まる、その最初に据えていた。私は少し居心地が悪いような変な気分になった――だってこの映画はワンカットをウリにしたリアルな映画だろ? だが、その居心地の悪さは必ずしも悪い出来事ではなかったと思う。これから、とてもひどいことが起こり、それをあなたたちは見る。映像は、それを目撃するわたしを向こう側から確認していた。その映像は明らかにこちらと関係を結ぼうとしていた。私がその時それに気付かなくても。女性がその気がなくても。

それから、島では労働党?が主宰らしいサマーキャンプが行われていて、女性――カヤは、妹と喧嘩したり、男性と知り合ったり、仲間とワッフルを食べて政治的な問題について討論したりする。政府の庁舎で爆発事件は起こっていたけど、詳しい情報はまだ入っていない。カヤは母親と電話する。「大丈夫、ここは世界で一番安全な場所よ」などと言っている。観客はここから起こることを知っている。そんな言葉に何の意味もないことを知っている。そして、銃声が聞こえる。でも、誰も何が起こっているかわからない。戸惑っている。何の音?爆竹?いや、あれは銃声だ――でも誰もが「じゃあ銃声が聞こえるってどういうことなんだ?」と思っただろう。そして、銃声が止まらず、たくさんの人が逃げてきて、堰を切ったようにすべてがめちゃくちゃになる。カヤたちも訳も分からず近くの建物に逃げ込む。

このようにして事件は始まる。カメラは妹を探しながら必死に逃げ惑うカヤを追いかける。それは何か因果関係によって導かれているものではない。銃乱射事件が発生し、その恐慌状態がまるで永遠のように続くだけだ。一応、カヤには妹を見つけたいという思いはあるものの、それを達成する驚くべき能力がただキャンプに来ただけのカヤに与えられている訳もない。俯瞰的な映像も台詞もない。この映画に出てくる人々は、そしておそらく現実のウトヤ島にいた人も、誰もそんな時にどうしたらいいかなんてわからなかった。出来ることと言えば、警察や家族に電話するぐらいだ。誰が何のために撃っているのか。犯人は複数なのか一人なのか。確かなことは誰にもわからない。確かなのは人が撃たれて大勢死んでいるらしく、それは今も継続している。それだけだ。イライラして、恐怖して、逃げ惑い、すべては行き当たりばったりに動いていく。そして、その中でずっと断続的に銃声が鳴り響いている。悲鳴も。近づいたり遠ざかったりしながら。その音の、見えない、恐ろしい暴力。血飛沫が派手に上がるわけではない。撃っている犯人の姿もはっきり見えない。しかし、一瞬カメラの端に映る犯人らしき男の立ち姿は何の表情の読み取れない、人影と呼ぶしかない姿であるにもかかわらず、異常な緊張感が漲る。72分のひとつひとつの出来事が印象的で、その72分に快楽はない。

この映画のいい点として、カメラを手ぶれを強調するような取り方をあまりしていないということがある。そういうことが即リアリティになる訳じゃないのだ。カメラはしばしば、カヤがあおむけに寝そべって隠れる森の土の上や、海岸沿いの岩場に壁を押し付けて隠れるようにしているその窪みに、分かりやすく一旦置かれたりするところがある。それが通常は透明な存在になっているはずのカメラが「そこにある」という実感を起こさせる。

後半で、海岸沿いの崖の下に隠れている男とカヤが、生き残ったら何がしたいか、という話題から、将来何がしたいかという話をする。それからカヤは自分は合唱隊をやっていると言い、男が歌ってくれと言う。最初カヤは歌う訳ないだろ、という顔をしているが、結局歌う。私は、こんな映画みたいな会話するか?みたいに思って、冒頭とは別の印象で、リアルを志向していると思われたこの映画のリアルさの置き所がよく分からなくなったのだが、生存者の証言を元にしていると言うから、もしかしたら島のどこかでそんな話をした人がいたのかもしれない。カヤと、そして、カヤよりもその男は、努めて、まるで映画のように振舞っていたのかもしれない。でも、そんな状況で歌を歌うなんて、おそらく途轍もなく愚かなことだった。なぜなら――

 

さて、この映画のカメラはカヤを追いかけてはいるが、POVとして完全にカヤに同化してくれるわけではない。そして、何とかカヤを追いかけてきた観客の心情を遮断するように映画は終わる。カヤの目の前で、観客の目の前で、あらゆることがどうしようもなく起こってゆく。ある種の救いですら、その渦中にいる者の手ではどうしようもないこととして提示される。私の中には、何を掴んだのかもわからないのに、しっかりとした手ごたえだけが残った。

まるで、アニメやゲームで時々あるような、自分の意識みたいなものだけがタイムスリップして、過去を追体験させられるけど、そこで起こっていることには干渉できない、という出来事のようだった。あれってこういうことなのか、という感触があった。

印象の強い場面ばかりなのだが、私が、この映画で一番ハッとさせられたのは、カヤが森の中で倒れた女の子を助けようとしているところで、女の子が「煙が……」と言う。カヤが振り向くと、昼さなかの光が差し込む木立の中に、薄い朱色の煙が立ち込めている。その煙が何故そこに存在しているのか、カヤにも女の子にもわからないし、もちろんそれを見る私たちにもまったく説明はない。犯人が投げた発煙筒のようなものなのか、逃げている誰かが起こしたのか、そうだとしても何のためにそんなことをしたのか、何もわからない。ただその赤い煙は黙って周囲の空間を満たそうとしている。さっきまではそんなものはなかった。まるでいきなり出現したかのように。それはカヤが女の子のそばにいる間に、いつの間にか迫って来ていたのだ。それはワンカットの中で、継続した一つの繋がりの中で、カメラがカヤと女の子だけを映している間に、進行していた。その煙は何か影響を及ぼすわけではないけど、しかし、何かが、酷い、とても酷いことがこの場所で起こっていて、この煙はおそらくその一部なのだ。島の場と時の流れを支配している異様さが、その瞬間に物質化しているみたいに、しかし、ぼんやりと光に透けてそこに漂っている。

その時私の中で、おそらくこれまで話した「女性がカメラの向こうの我々を見つめているように見える」とか「会話がまるで映画の脚本のように思える」とはまた別種の、リアリティに対する何かの反応が起こっている。それを処理できないし、そもそもこの煙は何かのアレゴリーではない――煙は煙で、死は死。すべては起こっている。起こってしまっている。原因に理由は付けられる。犯人は極右勢力で、その信条に乗っ取り、テロ事件を起こした。しかし、その渦中では、あの島のあの時間の中では、まったく説明がつかない。と言うより、説明が意味を持たない。しようとすれば映画の中の出来事も順番に説明できるだろう。でも、そんなことに意味はない。あの島は、きっと、そういう場所ではないのだ。出来事を平面的でなく、知るとは、そういうことではないのだと思う。あの島では、一方的な暴力のショックによってあらゆる出来事のジョイントが外れ、恐慌状態に陥り、すべてがめちゃくちゃな方向へ解き放たれてしまったのだ。その中にいた、とはどういうことなのか。それについて考えるためには、きっと中に入ってみなくてはならないだろう。中に入るとは、まったく意味しかないのにそれにまったく意味のないところ、法のない空間に、飛び込むということだ。それはそこから帰ってくることでもあり、しかし、同時にあの中で死んだということだなのだ。

ウトヤ島~』は事実を元にした「フィクション」だ。事実を素材に使って、その事実とは何だったのかを、島の中にいた一人の人にカメラを集中することで、フレームを絞ることで、その事実の『中』に入ろうとしたのだと思う。事実の中とは『出来事の嵐』だ。この映画は『フィクション』である立場を取って映画化されている。何故ならこの映画は、完全に再現できなかったはずのことを、事実を取材しても、感覚的には知れるはずのなかったこと『出来事の嵐』の中に、そこがどのようなところなのか、という部分に映画は入っていこうとしているように思えた。それは最後に起こる出来事の連鎖の帰結からも、そのような質感を感じた。だからこの映画はフィクションである必要があった。

それから、ここから先は映画の話ではないから、読み飛ばしてもらって構わない。あまり、こういう話をしたくてする訳ではないけど、映画を見て、先日ニュージーランドのモスクで銃乱射事件が起きて、大きな波紋を呼んでいる、あの犯人が配信していた映像は襲撃犯の完全なワンカットPOVで、まったく一方的な殺戮だった、あの映像を思い出してしまった。『ウトヤ島~』とはすごく対極的だ。あの映像の犯人には、建物を出て銃を交換して戻って来て、倒れている人々を念入りにもう一度撃っていく余裕があった。犯人はどう感じているかわからないが、あの主観映像には、明らかに、嫌悪と共に、暗い一方的な殺戮の快楽があった。その暗さすら感じず、ただ快楽として受け取ることもできるだろう。あんなゲームよりもボロボロに画質が悪い配信映像にこんなにも快楽を感じられるのは、何よりもこれが実際に起こったことだからだ。事実が圧倒的リアリティを付与している。もうYouTubeでは削除されているが、既に動画は世界中にばらまかれてしまった。おそらくこれからも伝説的なアンダーグラウンド映像として世界中にばらまかれるだろう。私はあの映像に快楽を感じることは抗えない。あの映像とブリティッシュ・グレナディアーズの音楽、そしてセットの声明文――「私は普通の家庭に生まれた普通の白人です」と犯人の男は言っている。その回心から復讐に至るまでのエピソード――私は英語ができないので、読んだ人のツイッターから断片的な情報を得ているだけだけど、もしそれが本当に声明文に書いてあるのなら――それらのすべてが「完成された物語」としてこの世をさ迷い始めた。物語の中でのありふれたお約束と言うのは、現実でもありふれていて、そこに違いなんてない。ありふれた物語と言うのはそれだけでパワーがある。それが現実であればなおさらだ。これはそのような物語の力に自分の精神と肉体が晒された時、その力にどうやって抗えるか、ということでもあるかもしれない。そのエピソードの典型的なナイーブさ、純粋さ、その理解のしやすさ、そのどうしようもなさに、私はすべての力が失われていくように感じる。